【Introduction】ポルノグラフィティらしさを追求した曲

 「ポルノグラフィティらしさとは何か」[1] を改めて自己評価して作ったという曲が、2016年のシングル《LiAR》。ギターの新藤晴一さんは、その答えを「ラテン」と解釈し、本楽曲の作詞作曲を手掛けました。作曲面で「ラテン」を表現しながら、サウンド面では「ロック」と「EDM」を組み合わせるという、三つの異なるジャンルが混在したユニークな楽曲に仕上がっています。

 ところで《LiAR》は、「liar 嘘つき」というタイトル通り、「嘘」について描かれた曲です。が、実は歌詞だけでなく、音楽面にも巧妙な「嘘」が仕掛けられています。この記事においては、そんな知的な「嘘」が仕掛けられたポルノグラフィティの《LiAR》について解析します。(かなり長いので、結論だけご覧になりたい方は#11へどうぞ。)

1. 《オー!リバル》の影響 ❶ラテンとEDM

 《LiAR》の誕生に大きく関わったのが、その前年に発売された《オー!リバル》(2015)のセールス的な成功です。これが《LiAR》に与えたと考えられる影響は、以下の三点。

  1. ラテンというアイデンティティを見直す機会になった
  2. 打ち込みへの創作意欲へ繋がった
  3. 歌詞に《ジョバイロ》のセルフオマージュがあった

 《オー!リバル》は、ポルノグラフィティにとって二つの音楽的な転機を迎えた曲。一つは、意外にも久しくラテン系の曲を作っていなかった彼らが「ラテン調を復活させた」こと、もう一つは「初めてEDMを取り入れた」ことです。《オー!リバル》が高く評価されたことで、「ラテン」という自身のアイデンティティを再認識することになったと同時に、その後の活動で打ち込みサウンドが積極的に作られるきっかけにもなりました。

 したがって、《LiAR》の「ラテン」と「EDM」は、この曲の成功から受け継がれたものになります。これらに、ポルノグラフィティの活動の原点である「ロック」が足されて、《LiAR》の音楽性は完成します。

 そして、以降の内容にもっとも関わるのが、3番目の「歌詞に《ジョバイロ》のセルフオマージュがあった」という項目。

2. 《オー!リバル》の影響 ❷ 《ジョバイロ》のセルフオマージュ

 《ジョバイロ》とは、2005年に発表された彼らのシングル曲で、手の届かない恋愛を「演劇」に例えて表現したラテン調の楽曲です。《オー!リバル》には、ポルノグラフィティ自身のラテン調の曲から様々なオマージュが施されていますが、中でも《ジョバイロ》からは歌詞に対するセルフオマージュを確認することができます。

 例えば、《オー!リバル》の自分自身を「ありのままにただ演じているだけ」という一節は、「生きること」を「人生という舞台で自分を演じること」に例えて表現した《ジョバイロ》の歌詞全体に通じるもの。直接的なものだと、《ジョバイロ》に登場する「銀の髪飾り」という言葉が、そのまま《オー!リバル》に使われるオマージュがあります。 (共に、作詞は新藤晴一さんが担当。)

 筆者は、こうして《オー!リバル》で過去のラテン曲を振り返っているうちに、《ジョバイロ》の「自分を演じる」から、《LiAR》の「偽りの自分を演じる」という着想を得たのではないかと考えています。というのも、《LiAR》は《オー!リバル》以上に《ジョバイロ》のオマージュだらけだからです。

3. 《ジョバイロ》のオマージュ ❶Du Ra Pa Pa Pa Bailar

 まず、最も明白なオマージュは、「ジョバイロ」というタイトルにちなんだ歌詞があること。

 「ジョバイロ Yo bailo」は、スペイン語で「私は踊る」の意。それに対して、《LiAR》には「Du Ra Pa Pa Pa Bailar」という謎のスキャットが登場します。「bailar」は単に「bailo」の活用違いなので、意味は同じ「踊る」。このスキャットは訳しても意味不明なのですが、無理に解読すれば「踊るために続ける」もしくは「踊りづらい」の二つの意味に取ることができます。

【謎のスキャットを無理に解読】
「Du Ra」は「dura」、「Pa」を「para 〜のために」の省略形と考えると、スキャットは「dura para bailar」と置き換えることができます。「dura」には「続ける durar」という動詞の三人称活用と、「難しい dura」という形容詞(この場合、女性名詞につく)の二種類あります。前者をとるなら「踊るために続ける」、後者をとるなら「踊りづらい」と解読できます。

※筆者はスペイン語に拙いため、恐縮ながら訳や表現に誤りがある可能性がございます。予めお詫び申し上げます。もしスペイン語に精通している方が本項に誤りがあると気付かれた場合は、お手数ですが問い合わせフォーム等で報告していただけますと幸いです。原文は残したまま、修正文を追加することで訂正処理をいたします。

 実は、当初「Bailar Bailar」というタイトル候補が上がっていたほど、《LiAR》は《ジョバイロ》の「踊る」から大きなインスピレーションを受けています。それを踏まえて観察すると、この二曲は共通点だらけ。

 例えば、双方の1番Aメロを見比べると、《ジョバイロ》の「冷たく濡れたに探りあてられた」に対して、《LiAR》は「僕はそれをで綺麗に拭った」とあります。何だかそっくりですね。

4. 《ジョバイロ》のオマージュ ❷《LiAR》の謎が解ける

 実は《LiAR》のわかりにくい部分は、こうして《ジョバイロ》と照らし合わせてみると、大体読み解くことができます

 例えば、以下の一節。

プラスティックな花びらが この身に残す狂おしい傷痕

 「プラスティックな花びら」は、いわゆる本物の花ではない「造花」のことと読み取れますが、これだけで意味を解釈するのはやや困難です。しかし、《ジョバイロ》のサビ「あなたが気付かせた恋が あなたなしで育っていく 悲しい花つける前に 小さな芽を摘んでほしい」と照合させると、「」は「」の隠喩ということがわかるので、「プラスティックな花びら」はその恋が偽りであることを表していると考えられます。

偽りの指 僕の手のひらに読めない字を残す

 この一節は、《ジョバイロ》の「はぐれないよう 絡めていたのは指じゃなく不安だった」と対応しているので、おそらく「偽りの指」は「不安」の隠喩。したがって、不安が自分の心にまとわりついていることを表した一節だと考えることができます。

 こうして《ジョバイロ》と照らし合わせて初めて意味がわかるように仕掛けられているのは、きっと相関性に気づいて解釈してくれるであろうというファンへの信頼によるものでしょう。

5. 《ジョバイロ》のオマージュ ❸「踊る」は「偽りの自分を演じる」の隠喩

 では、「踊る」には一体どんな意味が込められているのか。

 《ジョバイロ》でこの表現が登場するのは、「闇に浮かんだ篝火に照らされたら ジョバイロ ジョバイロ」という一節です。前述の通り、《ジョバイロ》は人生を「演劇」に例えて表現した曲なので、おそらく「闇に浮かんだ篝火」は暗い場所から舞台上の自分にあてられている「スポットライト」のこと。つまり、この一節は「自分にスポットライトが当てられたら 私は踊る」というような意味です。

 この節より前には、「舞台の真ん中に躍り出るほどの 役どころじゃないと自分がわかっている」という歌詞があるので、歌詞の主人公は明らかに自分に自信がないタイプ。それでもスポットライトに照らされたら、自信の無さを隠しながら堂々と踊ってみせます。これを人生に置き換えて意訳すると、「他人に注目されている間は、無理して自分を繕っている」といった意味になるでしょう。

 したがって、ここで言う「踊る」とは「偽りの自分を演じる」ことだと考えられます。《LiAR》の登場人物で「嘘」をついているのは「あなた」「」「街ですれ違う人」と、いやそれ全員嘘つきやないかいという感じなのですが、彼らがついている「嘘」というのが、そのまま「偽りの自分を演じていること」と解釈すれば、「誰もが本当の自分を隠しながら生きている」のだというふうに筋が通ります。

 ちなみに、それを踏まえて#2で無理に解読した「Du Ra Pa Pa Pa Bailar」の二つの訳に置き換えると、次のような意味になります。

  1. 踊るために続ける→自分を繕うために偽り続ける
  2. 踊りづらい→自分を偽るのは難しい

 スキャットの解読自体が怪しい推測なので恐縮ですが、もしこれに二重の意味が含まれているとしたら、これからも偽りの自分を演じ続ける意思と、その難しさとの間で板挟みになっているような息苦しさが感じられますね。

6. ラテンのイメージと対照的な歌詞

 《ジョバイロ》との共通項を全部あげていくとキリがないので、とりあえず共通点探しは次で切り上げます。

 最後に挙げる共通項は、《ジョバイロ》冒頭の「人は誰も哀れな星 瞬いては流れてゆく」という歌詞に対応している、「マッチが消えて聞こえてくる星のささやき」という大サビの一節。この節の前には、次のようなCメロが現れます。

吐く息を凍らせ マッチ棒灯したら 素敵な夢が見れたの

 言わずもがな、デンマークの作家アンデルセン(1805-1875)の童話『マッチ売りの少女』(1848)のオマージュです。ここで興味深いのが、情熱的なラテン調の曲なのに、歌詞に寒いデンマークの童話が仕込まれているということ。

 曲調が外面的なものであるなら、歌詞は内面的なもの。つまり《LiAR》は、表向きには情熱を演じているけれど、実際は冷たい感情を隠し持った曲ということになります。ちょうど歌詞の登場人物たちが「偽りの自分を演じている」ように、曲自体も同じような「嘘」をついているんですね。

7. 「対位法」という音楽の嘘

 このような「嘘」のことを、芸術の世界においては「対位法」と呼びます。(ここで言う「対位法」は「フーガ」等で使われる意味とは別です。)対位法は、正反対の性格を持つものを同時に内在させる方法のことで、例えば映画でよくある「悲しい映像なのに、明るい音楽が流れている」というのがこれにあたります。

 これで得られる効果は、「観客に作品の本質を知ろうとする気持ちが生まれ、観客がもっと作品に注目するようになる」というもの。映画音楽でよく使われる方法なので、そのまま上記の例で解説すると…

 もし「悲しい映像」に「悲しい音楽」が流れていたら、観客はその映像を何の取っ掛かりもなく観ることになりますが、「悲しい映像」に「明るい音楽」が流れることで、観客の心に「違和感」という取っ掛かりが生まれます。これによって、観客は「悲しい映像」であるという作品の本質を「悲しい音楽」が流れているとき以上に実感するようになり、余計にその映像が悲しく感じられるようになると考えられています。

 《LiAR》に戻ると、「曲調」のような雰囲気をつくるものは、映画音楽においてはムード作りを担う「音楽」の役割、「歌詞」のような内面的なものは、本質を含む「映像」に置き換えることができます。したがって、ラテン調の情熱的な曲調で盛り上げられることによって、余計に歌詞の寒々しい心情が際立つという効果が生み出されます。嘘って便利ですね(^^;)

8. 『マッチ売りの少女』の教訓

 この「寒々しさ」を演出するために使われている童話『マッチ売りの少女』には、ある教訓があります。それは、「幸せの在り方は状況によって変わる」ということ。

 「マッチを売れなかった少女が亡くなった」という結末はバッドエンドだと思われがちですが、どうやら実際はハッピーエンドのつもりで書かれたらしい。というのも、少女は生き延びていたほうがむしろ不幸だったからです。

 もしマッチが売れて生き延びていたとしたら、また家に帰っては父親に打たれ、次の日も飢えに苦しみながら、寒空の下マッチを売りにいかなければならなかった。それよりは、飢えも寒さもない天国へ行くほうがよっぽど幸せだ、とアンデルセンは考えます。(貧困で苦しむ当時のデンマークを風刺して書かれた作品なので、救われる手段が「天国へ行く」くらいしかなかった社会への批判も込められています。なお、2019年現在のデンマークは幸福度の高い国第2位。)

 必ずしも生きていれば報われるわけではない現実世界で、少女のような境遇の人間に「辛くても生きているほうが良いよ」というような価値観を押し付けるのは無責任かもしれない。だからこそ、一見バッドエンドのような結末を用意しながら、彼女の幸せは他人が勝手に決めることではないのだと、物語は次のように締め括られます。

もえつきたマッチのたばをにぎりしまえた小さななきがらに、新年の朝日がさしそえました。「この子はこうして、あたたまろうとしたのだね」人びとは、そう言い合いました。女の子がどんなに美しいものを見たか、(中略)どんなにすばらしい光につつまれて新年のよろこびをむかえたのか、だれにもわかりはしなかったのです[2]

 では、なぜわざわざこの童話が《LiAR》で引用されているのか。

8. 実は嘘を肯定した曲?

 それは、童話の「幸せの在り方は状況によって変わる」という教訓の中に、嘘を肯定する考えが含まれているからだと考えられます。童話で描かれる「幸せの在り方」には、生きることだけではなく、「幻想か現実か」すなわち「嘘か本当か」も含まれています。

 「少女がマッチの幻想でクリスマスのご馳走を見る」という場面は、「本物のご馳走じゃないから食べることはできなかった」と不幸にも受け取れますが、アンデルセンはその幻想によって少女が十分な喜びを得たことを示しています。たとえ「本当」でなくても、状況によってはやはり「嘘」も幸せになり得るとする考え方です。

 「いやいや、《LiAR》は嘘で幸せになるどころか苦しんでいるから、嘘を否定している曲じゃないか」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんし、その裏付けに「マッチが消えて聞こえてくる星のささやき」という一節は、よく「もう嘘をついてはいけないと思い立つ箇所である」と解釈されています。しかしながら、筆者はそれは少し違うと考えています。

 というのも、『マッチ売りの少女』における「星」は次のような意味を持つからです。

「流れ星が落ちるたびに、たましいが一つ、神さまの元にめされるのだよ」と、今はもういないおばあちゃんが、いつか話してくれたのです。この世でたった一人、女の子にやさしくしてくれたおばあちゃんでした。[3]

 最後のマッチが見せるのは、この「おばあちゃん」の幻。少女はおばあちゃんに「おねがい、わたしをつれて行って」[4] と頼み、一緒に空へのぼっていきます。つまり、マッチが消えて星のささやきが聞こえてくるのは、嘘に浸るのをやめたからではなく、天国へ召されて自分も星になったからです。(この「流れ星」の比喩は、《ジョバイロ》の冒頭にも明確に表されていますね。(^^))

 ではこの一節にどんな意味があるのかと言えば、「幻想」だったおばあちゃんが「本物」になる場面なので、「嘘が本当に変わった」という意味、そして、(しつこいようですが)それが「ハッピーエンド」であるという意味があると考えられます。

 面白いことに、発売前のライブで公開された《LiAR》の仮歌詞には、次のような一節があるのです。

嘘が本当になる予定を待っている

10. 嘘でも前に

 これがどういう意味かは、《LiAR》の作詞を担当した新藤晴一さんの「嘘でも前に」という格言を参照するとわかります。「嘘でも前に」は、彼のエッセイ『自宅にて』で公開された言葉で、全貌は次のようになっています。

100%の自信をとり戻すまで「嘘でも前に」だよ。「嘘でも前に」行けるうちは前に行く。「嘘でも前に」いけなくなったらそのとき考えよう。そうしてるうちに「明後日か明々後日か一週間後くらい先は、いい日さ」って思えるかもしれない。[5]

 自分に自信が持てなくても、騙し騙し前に進んでいるうちに、いつかはまた本当に自信が持てるようになるかもしれないという考え方です。つまり、晴一さんは前向きになれる嘘であれば肯定する考えを持っています

 《LiAR》の「嘘つき」たちもまた、騙し騙し自分を偽って演じているうちに、いつかは本当にそういう自分になれることを望んでいます。彼らが苦しんでいたのは、「嘘をついていること」というよりは、「いつまでも望んでいる自分になれないこと」であって、その嘘を努力して続けた先に待っている幸せについてはむしろ肯定していると考えられます。

11. まとめ

 《LiAR》の「あなた」が抱えている問題は、#4に前述した「プラスティックな花びら」という詞から、おそらく本当は「」を愛していないことだと窺えます。しかし、「彼を愛している自分」を演じ続けているうちに、いつか本当に愛することができるようになることを望んでいる。

 対する「」は「あなたに愛されていないことに気づいていない自分」を演じていますが、そうしているうちに、いつか「あなた」の嘘が本当になることを待っています。

 一見、どちらの「嘘」も単なる現状維持で、「別れたほうがいいんじゃね?」という見方もできますが、もし何もせずに別れてしまえば、問題に取り組まず投げ出したことにもなります。相手を愛する努力や、愛してくれるのを待つ努力を続けることで、本当の幸せを手にすることができるかもしれません。つまり、別の視点では「嘘」は問題を投げ出さないで現状を変えるための尽力でもあります。
  

 長くなりましたが、まとめると次のようになります。

  • 《LiAR》で描かれる「嘘」とは、本当の自分を隠しながら偽りの自分を演じること
  • 「熱い」ラテンの曲調に「寒い」デンマークの童話の歌詞が対照的にのせられることで、音楽的にも「偽りの自分を演じる」が表現されている
  • そしてその「嘘」は、「嘘でも前に」という現状を変えるための努力として肯定されている

 最後の「よく見れば皆 本当を隠してる」という一節は、「誰も信用できない」という意味を持つと同時に、きっと「誰もが自分を隠しながら、現状を変えようとがんばっている」ということなのでしょうね。
   

※ ちなみに、タイトル候補には「Liar Liar」も上がっていたそうですが、これはB’zの《Liar! Liar!》(1997)と被るのでやめたそう。(また、他の「Liar」という楽曲と区別するため、「i」だけ小文字表記にしたそうです。)実は、《Liar! Liar!》も似たようなテーマで描かれた曲。最後一節は、こんな歌詞で締められています。
Oh, liar liar だれもがliar 愛する人が ハッピーになりゃそれでいいや
    

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※同じく「対位法」が使われた曲で、歌詞にはラテンの曲調とは対照的な、ある国のことわざがオマージュされています
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【引用資料】
[1] TBS系列『COUNT DOWN TV』2017年10月28日放送
[2] ヤーコプ&ヴィルヘルム・グリム、イソップ、ハンス・クリスチャン・アンデルセン『こどものための世界の名作 グリム・イソップ・アンデルセン ベスト30話』世界文化社、1994年、北川幸比古、鬼塚りつ子、木村由利子訳、p.153
[3] 同上、p.151
[4] 同上、p.152
[5] 新藤晴一『自宅にて』ソニーマガジンズ、2005年

【参考資料】
・TBS系列『COUNT DOWN TV』2017年10月28日放送
・デイヴィッド・ゾンネンシャイン『Sound Design –映画を響かせる「音」のつくり方』フィルムアート社、2015年、シカ・マッケンジー訳
・新藤晴一『自宅にて』ソニーマガジンズ、2005年
・ヤーコプ&ヴィルヘルム・グリム、イソップ、ハンス・クリスチャン・アンデルセン『こどものための世界の名作 グリム・イソップ・アンデルセン ベスト30話』世界文化社、1994年、北川幸比古、鬼塚りつ子、木村由利子訳