午前4時33分

【ネタばれ】映画『インセプション』ラストシーン解説

※ この記事には、映画『インセプション』の結末に触れるネタばれが大いに含まれます。ご了承の方はご覧ください。

【Introduction】本当にラストは観客に委ねられている?

 「夢」を使ったビジネスをしている主人公コブは、妻殺しの容疑がかけられているせいで、子供たちのいる我が家に帰ることができない。そこで、自身の犯罪歴を消すことができる相手と、「夢」を利用した重大な取引をすることを決断する。成功すれば子供たちと再会できるが、もし任務に失敗すれば、二度と醒めることのない「夢」に堕ちることになるかもしれない…。
   

 クリストファー・ノーラン(1970-)監督の映画『インセプション』(2010)は、いわゆる「観客に委ねられた」終わり方をします。それは、主人公が最後に行き着いた場所が「夢」だったのか「現実」だったのかは、見た人の判断に委ねられるというもの。

 ラストシーン、任務を無事完了したコブは、晴れて我が家に帰って子供たちと再会します。しかし、もしかしたらそれは現実でなく、「我が家に帰った夢」を見ているだけなのかもしれません。

 一見すると、このラストに正解はなく、観客が思い思いの答えを出して良いかのように思えます。というのも、ノーランが次のように語っているからです。

最も重要なことは、あのシーンでコブがコマ(*注釈参照)を見ていないということだ。あの時彼は、コマではなく子供たちを見つめていた。コブはコマを捨てた、ということなんだ。[1]

*コマ:夢か現実かを見分けるアイテム。居る場所が夢であれば回り続け、現実であれば倒れる。コマが回り続けるのか倒れるのか、すんでのところで映画が終わる。
    

 たどり着いた場所が夢にしろ現実にしろ、コブが子供たちと再会したことに変わりはなく、その場所で子供たちを大切にしていくことが重要だということですね。

 しかし、本当に「ラストは夢か現実か」という問いに、答えはないのでしょうか…?

1. 実は答えがある

 実は、どっちでもいいように見えるこのラストには、答えが用意されています。  結論から言ってしまうと、ラストシーンは…

 

 実はこの根拠となるヒントが、映画の中に隠されています。この記事においては、そのヒントを一つずつ拾い上げていきます。
  

※記事の途中、どうしても『インセプション』以外の作品のネタばれを必要とする箇所があります。各々のネタばれに入る前には必ず注意喚起が入りますので、直前まで読んで離脱していただくか、その先の項に飛んでいただくかお選びいただけます。どうぞ安心してご覧くださいませ。(参考までに、ネタばれのある作品は、映画『惑星ソラリス』、小説『ソラリス』の2点。)

2. 最愛の人が最恐の敵?

 ヒントを拾う前に、まず確認しておくべきことが一つ。マリオン・コティヤールが演じている、コブの妻「モル」の存在についてです。

 モルは、夢の世界に囚われかけていたところを、コブに「ここは現実じゃない。戻るには死ぬしかない。」という考えをインセプションされ(植え付けられ)ます。しかし、現実に戻った後も、「ここは現実じゃない。戻るには死ぬしかない。」という考えは消えず、モルは現実世界で身を投げてしまう。その後、コブの夢の中には死んだ「モル」の幻影が悉く登場して、彼の邪魔をするようになります。

 夢に現れる「モル」は、自分の行いが原因で妻を死なせてしまった罪悪感が、潜在意識が投影される夢において具現化したもの。フランス語で「モル Mal」には「悪い」という意味があるように、夢の「モル」は罪悪感の擬人化として襲ってくる怖ろしい敵です。その一方で、彼女は現実世界ではもう二度と会うことができない最愛の人でもあります。

 映画の終盤、夢なら永遠に一緒にいられるからと、夢の「モル」はコブが現実に戻るのを引き止めます。しかし、夢に囚われれば、現実世界の子どもたちには二度と会えなくなる上に、夢の中の「モル」は記憶の中から再現した存在であって本物ではない。それをわかっていながら、コブは頭を悩ませます。

 最愛の人でありながら、最恐の敵。そんな複雑な悪役像である「モル」の存在は、ラストを解くための重要な手掛かりになります。

3. エディット・ピアフ《水に流して》

 さて、まず一つ目のヒントは、「夢から現実に戻る合図」として流される、エディット・ピアフ(1915-1963)の楽曲《水に流して(原題:Non, je ne regrette rien)》(1960)。

 寝ている仲間に現実の世界から《水を流して》を聴かせれば、それを合図に目を覚まして夢の世界から帰って来る、いわゆる「目覚まし音楽」のような役割として使用されています。

 《水に流して》は、ピアフの晩年に発表されたシャンソンの名曲。元々はピアフのために作られた楽曲ではないので、歌詞もピアフでなく作詞家のミシェル・ヴォルケールが担当しています。しかし、伝記映画『エディット・ピアフ 〜愛の讃歌〜』(2007)において、初めてこの曲を聴いたピアフは「これは私の人生を謳った曲」と言っています。

 タイトルの「Non, je ne regrette rien」は、直訳をすると「いいえ、全く後悔していない」という意味。過去にあった悲しみや喜びすべてに対して「全く後悔していない」と歌っている詞です。では、ピアフはそれまでに一体どんな人生を送ってきたのか。

 幼い頃は角膜炎に悩まされ、16歳で産んだたった一人の子供は2歳で他界、雇われたナイトクラブのオーナーは殺害され、その共犯者に疑われ、不倫関係にあったボクサーが飛行機事故で亡くなり、そのショックを癒すために晩年はモルヒネ中毒に…。 壮絶!!(笑) そんな人生すべてを「いいえ、全く後悔していない」と言い切るピアフのたくましさが窺える楽曲です。

 そして、重要なヒントが以下の歌詞。

Balayées pour toujours, je repars à zéro
永遠に消し去って、私はゼロからやり直す
Car ma vie car mes joies Aujourd’hui, ça commence avec toi
私の人生も私の喜びも 今日あなたと始まる

 まるで「モル」が話しかけてきているかのよう。怖いですねぇ。

 「今日あなたと始まる」。この一節を「モル」の言葉に置き換えるなら、ラストは彼女と共に「」に囚われてしまったと考えるのが妥当でしょう。
  

※ちなみに、上記の映画『エディット・ピアフ 〜愛の讃歌〜』でピアフ役を演じているのは、なんとモル役のマリオン・コティヤール。ここも合わせているように見えますが、なんと彼女のピアフ役が決まる前から《水に流して》を映画に使うことは決定していたそう。良い偶然。
    

※以下、映画『惑星ソラリス』および、その原作小説『ソラリス』の結末に触れるネタばれが含まれます。#6 以降はネタばれを含まないので、ネタばれを望まない方はそちらへ飛んでいただくこともできます。

    

4. 映画『惑星ソラリス』からの影響 ❶プロット

 二つ目のヒントは、「自分のせいで自殺した妻が、潜在意識から現れる」というプロット。これは、巨匠アンドレイ・タルコフスキー(1932-1986)監督のSF映画『惑星ソラリス(原題:Солярис)』(1972)から着想を得たものです。

 『惑星ソラリス』の主人公は、心理学者のクリス・ケルビン。探査のために「ソラリス」という惑星へ出向くと、なんとそこには10年前に自殺したはずの妻がいた…。

 これは、ソラリスにいる知性を持った「海」が、主人公の心に強く残っている記憶を実体化したもの。クリスも実は、自身の行いが原因で妻が自殺してしまった過去をもっています。人間よりもはるかに高度な性能を持っている「ソラリスの海」は、人間で何か実験しているのか、それとも単にいじわるなのか(笑)、なぜか彼の記憶から妻の幻影を作り出して、クリスを苦しめます。

 以上のように、舞台が夢から宇宙に変わっているだけで、『インセプション』とほとんど同じプロット。記憶から幻を見せる惑星「ソラリス」は、『インセプション』でいう「夢」であるのに対し、「地球」は帰るべき場所である「現実」に相応します。

5. 映画『惑星ソラリス』からの影響 ❷原作に存在しないラスト

 『惑星ソラリス』のラストは、クリスが地球の我が家に帰っている…

 と 思 い き や 、 本当はソラリスの海が「我が家に帰ってきた幻」をクリスに見せていただけで、「我が家に帰ってきたつもりが、実はソラリスに囚われてしまっていた」という衝撃的なオチで幕を閉じます。

 スタニスワフ・レム(1921-2006)の原作小説(1961)には、このフェイクはありません。原作のクリスは、むしろ自ら海と向き合うことを決断し、ソラリスに残ります。「残る」という結果は同じでも、「地球に帰ろうとしたのに、ソラリスに囚われてしまった」という映画版とは、まるで意味が異なります。

 読書好きとして知られるノーランですが、『インセプション』は映画版から影響を受けたと発言しています。[2] 『インセプション』も同じく、「我が家に帰ってくる」ラストシーンで終わっていますが…

 これを『惑星ソラリス』にしたがって読み解けば、本当は「現実の我が家に帰ってきたつもりが、実は夢に囚われてしまっていた」と解釈することができます。
   

6. 胡蝶の夢

 このような、「夢と現実の区別がはっきりつかないこと」を表す有名な言葉に、「胡蝶の夢」というものがあります。

 これは、中国の思想家である荘子が「蝶になった夢を見て目を覚ましたら、自分が蝶なのか荘子なのかわからなくなっていた」という逸話から生まれた言葉。この言葉には、「夢か現実かは重要ではない(夢と現実に優劣はない)ので、その場所で満足できるように生きていけば良い」という教訓があります。

 荘子は、この世界に絶対的な優劣はないという「万物斉同」という思想を掲げていた人物。例えば、「胡蝶の夢」の蝶と荘子は形において全く異なるものの、それは単なる「物の違い」にすぎず、どちらも自分であることに変わりはありません。同様に、夢か現実かも単なる現象の違いであって、どちらのほうが良いということもない。

 したがって、どちらが真実であるかより、どちらも肯定して各々の場所で満足して生きていけば良いじゃないかというのが、荘子の考え方です。荘子はよっぽど蝶になった夢が楽しかったのだろうか…。(笑)

 記事の冒頭で前述したノーランの意見は、正しくこの「胡蝶の夢」の教訓に従っているもの。「夢か現実か」という現象の違いは重要ではなく、コブがそれを気にせず子供たちに目を向けていたことこそが「最も重要なこと」だとしています。

 ではなぜ、現象の違いは重要ではないとしているにも関わらず、わざわざ「夢」という答えが用意されているのでしょうか?

7. なぜ答えが用意されているのか

 それは、「夢か現実かは重要じゃない」という主張に、より説得力を持たせたかったからだと考えられます。

 一般的には、夢と現実ではどうしても現実のほうが「真実」として優遇されてしまうため、もし答えが「現実」だと、上記の主張に説得力が欠けてしまいます。したがって、どうしても「夢か現実か」が気になって探りを入れてしまった観客に向けて、「夢」という答えを念のために用意しておいたのでしょう。

 夢で生きたがっていたモルを否定し、現実にこだわってしまった結果、大切な人を失ってしまったコブ。そんな彼が、新しい場所で、大切な子供たちと、「夢か現実か」にこだわらない新しい人生を始めます。

永遠に消し去って 私はゼロからやり直す
私の人生も私の喜びも 今日あなたと始まる

 「」はモル、「あなた」はコブに置き換えられると #3 で紹介した《水に流して》の一節ですが、本当は「」はコブで、「あなた」は子供たちのことだったのかもしれません。
   

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【引用文献】
[1] 【ネタバレ解説】映画『インセプション』複雑なルール設定、ラストの意味を徹底考察(2019/09/06閲覧)
[2] 町山智浩の難解映画⑪『惑星ソラリス』(1972年)、2014年

【参考文献】
【ネタバレ解説】映画『インセプション』複雑なルール設定、ラストの意味を徹底考察(2019/09/06閲覧)
・ スタニスワフ・レム『ソラリス』早川書房、2015年、沼野充義訳
町山智浩の難解映画⑪『惑星ソラリス』(1972年)、2014年
・ 野村茂夫『ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 老子・荘子』角川文庫、2004年

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